体力は40歳を境に減退していく?(その1)
40歳を過ぎた頃だった。
20歳台の後半から六甲山へ年末登山というのを続けていた。
その頃はまだ、頻繁に登山はしていなかったので、いわゆる「登山」というものは年に一度、しかも年末という家族にはちょっと顰蹙を買いそうなタイミングで行っていたのであった。
その年もK先輩と二人で六甲山へ登って、そして帰ってきた後に奥さんにこんな事を言ったのであった。
「最近登るのがだいぶしんどなってきたわ、、、」
すると奥さんが
「当たり前やん、この年になったらな、体力は衰えるのみで、せいぜい今の状態を保つのが精一杯やろな、、、」
そうなのか、、、と思った。
確かに20歳代の後半と40歳に入った「自分」は明らかに後退への坂道を降りていってる、という自覚があった。
特に体力面において、、、
しかし本当にそうなのだろうか?とは考えなかった。
その時は僕もそう信じていた。
奥さんの言葉を鵜呑みにして、「仕方ないな」と納得していた。
事実、その後何年かで体力は少しずつ、少しずつ落ちていった。しかしそれは目立って落ちていったわけではなく、ある日ふと体力が落ちていると気づく、という感じなのでした。
どうして山に登るのか?
ジョージ・マロリーの名言としてよく知られているのが
「どうして山に登るのか?」
と聞かれた彼が
「そこに山があるから」
と答えたというのをうろ覚えでいたのだが、正確には
「なぜ、あなたはエベレストを登りたかったですか?」
Why did you want to climb Mount Everest?
という質問に対して
「それがそこにあるので」
Because it's there.
という返答だったそうな。
つまりは意訳なのですが、どちらかと言うと「そこに山があるから」というのは「どうして山に登るのか?」に対しての答えであるように思えますね。
僕はずっと今まで、山登りをあまりしたことがない人に「何で山なんかに登るん?」と聞かれた時は「そこに山があるから」と答えてきました。
しかし、、、
この歳になると、山登りをする「意味合い」が変わってきたのです。
すべての人がそうとは限らないのですが、少なくとも今の僕は
「健康、そして体力を維持するために山に登る!!」
という意識が強くなってきました。
それは「そこに山があるから」という漠然とした(まるで思想的な)ものではなく、もっともっと具体的で、意味深く、現実的なもの、なのですね。
単に山に登っているから元気、というのではなく、山に登り続けるために日頃から鍛錬する、健康を維持する、ということが肝心になってくるのです。
実はその日頃の鍛錬がとっても重要(健康にとって)だとつくづく感じています。
さて、先日富士登山の記録2000回を達成したという記事を見ました。
すごいですね。
ここまで超越してしまえば、体力維持のために富士山に登るのか、富士山に登るために体力をつけるのか、まぁそんなことどちらでも良くなりますけどね(笑)
55歳になった今、思うこと
55歳になって思うことは、たぶん50歳だった時には思わなかったことだ。
僕にとっての50歳は、まだまだ「痛いところ」などは無かったし、他の人が腰が痛い、膝が痛いと言ってても「チッ」と思っていたし(笑)、「山登りなんて無理やわ、、」という人に対しては、体育会系的に「そんなの気持ちの問題で、誰でも出来るやろう」と思っていた。
しかし55歳になった今、そうたった5年しか経っていないのに、その考え方は独りよがりでとっても傲慢だったということが少しずつ分かってきた。
幸いにも脚や膝や腰に関してはかなり丈夫みたく、特に「痛くて困る」ということ無いのだが、この世代の人がよくかかるという五十肩というものになってしまい、「もしこれが膝だったら、、、」と考えると、きっと山登りなど出来なくなっていたのだろう、、と周りの膝が痛くて山に登れない人を見ていて想像してしまうのでした。
50歳からのたった5年、心境の変化は大きい。友人たちと話をしていても病気や体の故障の話題が一挙に増えた。というか、自分の話をする、となるとまずは病気の話から始まるのが常だ。しかし30歳台の友人たちと話をしていても病気の話などまったく出てこないことに後になって気づく。人の一生の後半部分に向かっていることが身に沁みてわかる瞬間だ。
たけど、そんな「老い」は着実に自分の体に染み込んできているのはわかるのだが、実を言うとこの5年で体力はぐんと伸びている。やはり毎年続けている富士登山と一昨年から始めた六甲縦走、そして何より一緒に山登りしている同級生たちが出来たことがその大きな要因だと思っている。
もちろん山登りの後に居酒屋に行って話すことは病気の話が多いのは言うまでもないが(笑)